発達障害の私が自立を獲得するまで(3)

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aspeman

1989年、広島に生まれる。 理系大学に進学するも、文筆家を志すようになる。 在学中より定期刊行物への投稿を始める。 卒業後は毎月1本の連載を抱えるも、発達障害のためにアルバイトを転々とする。 経済困難による自殺未遂なども経験しながら文章の道を求め、現在では文章一本での生活を確立している
This entry is part 3 of 6 in the series 発達障がいの私が自立を獲得するまで

発達障害であると分かってある意味安心したのは事実ですが、将来に関しての心配は非常に大きなものでした。今までの経験上、どのようなアルバイトをしても上手くいく気はしませんでした。また、文筆の道に関しても毎月に1本の連載は継続していたものの、稼ぎにはほとんどなりませんし、その連載以外に文章を書く機会はありませんでした。

ホテルでのアルバイト経験から、接客業は無理であると判断し、次に選んだアルバイトはトラックの運転手でした。ただトラックの運転をするだけであれば人と接する事も少ないだろう、うまくやれるかもしれないと考えたのが選んだ理由です。

接客業ではないアルバイトも初めてみるが…

しかしこの思惑は大きく外れました。小さな会社でしたが工場で自動車の電装部品を作っており、出来上がった製品を10tトラックで親会社に運ぶという仕事なのですが、出来ない事だらけだったのです。

朝会社に行くと、前日までに作った製品をすぐにトラックに積み込みます。午前と午後に1回ずつ配達するため手際よく積み込んでいかなければならないのですが、発達障害特有の空間把握能力のなさのために上手く積み込むことが出来ないのです。そして何度教えられても上手く積み込むことが出来ませんでした。他の従業員がやるとぴったりと隙間無く収まるのに、私がやると隙間が出来てしまって配達中にガチャガチャと揺れてしまい、時には中で製品の箱が倒れて大惨事になったこともあります。

親会社につくと納品をし、工場で使う部品を持って帰り、これを工場内の指定の箇所においていきます。しかしここでは、分別した数種類の部品のそれぞれの置き場所が分からないのです。また、置き場所が覚えられないのと同時に、数種類の部品の形がどれも似た形のように見えて分別をすることができないのです。そのため、携帯の写メでそれぞれの部品の写真を撮って置き場所をメモする、などという工夫をしました。それでも毎日、その作業のときには必ず写真を見ながらでなければ置き場所が分からないので怒られっぱなしでした。

午後の作業では会社で作った10~20種類くらいの部品を、午前中とはまた別の会社の倉庫に納品に行きます。この会社の倉庫は非常に広く、複数の会社が指定の場所に製品を納品しに来ます。そして部品ごとに納品の場所が異なるため、私にはそれらを覚える事ができず、納品に時間がかかりすぎたことから、ここでもまた怒られっぱなしでした。

結局この仕事はそれまでで最悪のものでした。何一つうまくいかず、いつ辞めようかと思っていた頃にトラックをぶつけ、クビになりました。

 乾坤一擲の思いで、文筆のみで生活することに

もうどのようなアルバイトも成功しないということが分かり、私は乾坤一擲の思いで文筆を専業にすると決めました。その当時、ネットのクラウドソーシングサービスというものを知り、そこを使えば文章を書くことで稼ぐ事ができると知ったからです。時給ベースで考えると500~600円くらいは稼げますから、1日あたり5000円くらい稼いでいけばなんとか生活していけるのではないかと考えたのです。

確かになんとか生活していけるだけの稼ぎは出せるようになりました。しかしこのときに深く悩んだのが、クラウドソーシングサービスではクライアントが募集した文章に対しての執筆をするため、自分の書きたい文章が書けるわけではないということです。

書く文章は美容関係やマネー関係など、自分が興味を抱くことが出来ないものがほとんどでした。学生時代から文章を磨きに磨いてきたと自負してきた私にとっては、自分の文章を安売りしているような気がしてならなかったのです。今思えば謙虚さに全く欠けていました。

文章には自信があったにもかかわらず、稼ぎは非常に安く、しかも書きたくもない文章を来る日も来る日も書き続けて、それでも生活は苦しいままでした。このころから酷いうつ病に悩まされるようになりました。

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1989年、広島に生まれる。
理系大学に進学するも、文筆家を志すようになる。
在学中より定期刊行物への投稿を始める。
卒業後は毎月1本の連載を抱えるも、発達障害のためにアルバイトを転々とする。
経済困難による自殺未遂なども経験しながら文章の道を求め、現在では文章一本での生活を確立している