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発達障害を抱えて悩み、苦労をしながらも何とか自立をすることができました。自立を獲得した今、思うことがあります。
それは、健常者と発達障害者は明らかに別の生き物であるということです。健常者たちは羊であり、発達障害者は狼であると思っています。
健常者のうち8、9割は羊であり、一部の資本家や権力者が羊飼いです。羊たちは羊飼いたちの定めたルールの中で群れをなし、制限されたなかで従順に生きています。ルールに従わなければ群れから追い払われて死んでしまいます。もとより、羊飼いたちの教育によって、羊飼いの定めたルールの中で生きて行く事に疑いすら感じていません。
しかし、発達障害者は狼です。狼であるにもかかわらず、自分も羊の一匹だと思って、必死に羊の群れのルールに従って生きていこうともがいています。しかし結局は、多くの狼は所詮羊ではないのですから、群れのルールに従うことが出来ずに追い出されます。群れの中に居た頃は家畜ですから、羊飼いたちがエサをくれるので生きることが出来ますが、群れから出れば自力でエサを獲得する必要があります。しかし狼が狼たる自覚を持たず、牙を持っていることに気付かないうちは、餓死するほかありません。
発達障害者は特異的頭脳を持っています。それは狼が牙を持っていることに当たります。これが羊と狼の違いです。羊の群れで生きて行く事は出来ませんが、自分の技能に気付き、すなわち牙を持っている狼であることを自覚できたならば、群れの外でも生きて行く事ができます。
この、発達障害者特有の技能を持っているということを自覚しなければなりません。牙の自覚、それこそが狼が羊の群れの外で生き残る唯一の方法なのです。
羊たちは、群れの中にいるルールを守れない、少しおかしいやつを支援する事も無く、ただ社会の片隅に追いやってきました。発達障害者は昔も今も、使いにくいヤツ、おかしなヤツとして虐げられています。歴史の転換、文明の進歩の影にはいつも発達障害的素質を持った者の功績があったにもかかわらず、相変わらず発達障害者という少数派を追いやっています。
私は、健常者たちがそのような態度で臨んでくるならば、それでもかまわないと思っています。私は社会からある程度隔絶された場所に身をおいて、今後どうして行くかをじっくり考えていきたいと思っています。群れから外れても、自分でエサを獲得して生きて行くすべを確立した今は、羊の群れに無理にいる必要はないのです。さっさとそんなものからは抜け出して、自由にやったほうがいい。
健常者たちが、社会が、発達障害者に対して理解がなく、支援をする動きもほとんどない今、発達障害者に求められるのは、いかに早い段階で自分の特異的技能を自覚し、群れから外れて生きていけるかということだと思います。ルールに従うことが困難であるにもかかわらず、生きていくために無理に群れの中にいることは非常につらいことですし、いつまでもその状況が変わることはありません。羊の群れに何年いようとも、狼が本質的に羊に変化することなどありえないからです。
そして、全ての発達障害者の住みよい社会をつくるためには、群れから外れた狼が一匹でえさを取って生活し続けているだけでは不十分です。羊の群れから外れた狼たちが群れをなす必要があると思います。
狼であることを自覚し牙を磨いた狼が群れを成したならば、大きな力をもつことになるでしょう。どれほど羊が寄り集まって群れを成していても、一気に噛み殺してしまうほどの力を持つことができます。今まで羊の群れのルールに従えないからと言って、コケにし虐げてきたやつらに対して、こちらが有利な立場を築く事もできるでしょう。そこまでできなくとも、今よりよい環境を作ることは可能であると思います。
その際に厄介なのは羊よりも羊飼いでしょう。しかし羊飼いがどのような力を持っていたとしても、群れの規模と狼一個一個の能力の程度によっては羊飼いたちをも噛み殺すことが出来るでしょう。羊と羊飼いを屈服させる、もしくは見過ごす事ができない力をつけ、狼にすみよい環境を保証させなければならないと思っています。
そのような環境を作ることが出来れば、狼であるにもかかわらず狼である自覚を持てずに、羊の群れで苦悩している狼を救い上げ、牙を持っていることを自覚させるシステムも確立することができるでしょう。
このような社会を構築する以外に、発達障害者全体が幸せになる道はないと思います。
そのためには、まずは狼たる自覚をもち、群れの外で生きている狼たちが、小さくてもよいから群れを作る必要があるでしょう。いまも既に発達障害者たちが集まる会のようなものがありますが、ほとんど意味はないと思います。サロンのような集まりであり、そのような中での馴れ合いは所詮傷の舐めあいに過ぎません。
もっと戦闘的意欲をもって、社会への挑戦意識をもって、流れを変えていこうという気概をもって発達障害者同士が集まっていかなければ、現状打破は不可能でしょう。
具体的には何をすればいいか、これと言って提示することはできません。しかし、このような気持の強い人が、まずは2人集まることです。2人いれば会議ができます。3人いれば文殊の知恵で、5人も集まれば相当な事が出来るはずです。
そのために、手探りではありますが、文筆の腕を磨きながら、出来る事をやっていきたいと思っています。
この記事を書いた人

- 編集者
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1989年、広島に生まれる。
理系大学に進学するも、文筆家を志すようになる。
在学中より定期刊行物への投稿を始める。
卒業後は毎月1本の連載を抱えるも、発達障害のためにアルバイトを転々とする。
経済困難による自殺未遂なども経験しながら文章の道を求め、現在では文章一本での生活を確立している
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発達障害が狼の牙の様に、使い方が分かっているものであれば苦労は致しません。
発達障害を牙に例えるのであれば、珍獣バビルサの牙でしょう。
用途が良く分からない上に、最後は自らの頭に突き刺さります。使い方が良く分からないので苦労するのです。
されど、此の牙には、雌を惹き付ける要素も有しているようです。
皆とは違う「異形たる部分」が人々を魅了する物になれば良いのかも知れません。しかし「異形たる部分」に魅力を感じる事が出来ない我々が、発達障害という異形たる部分に魅力を持たせる事は不可能でしょう。
ダイヤの原石の如く、健常者に磨いて貰わねば、異形たる部分は「異形」と評価されるのみです。
異形たる部分を磨き、魅力を与えてくれる健常者を見付け、共に歩む事こそが理想であると考えております。