発達障害者と健常者は共存できるか

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aspeman

1989年、広島に生まれる。 理系大学に進学するも、文筆家を志すようになる。 在学中より定期刊行物への投稿を始める。 卒業後は毎月1本の連載を抱えるも、発達障害のためにアルバイトを転々とする。 経済困難による自殺未遂なども経験しながら文章の道を求め、現在では文章一本での生活を確立している

こんにちは、ADHDとアスペルガー症候群の当事者のaspemanです。今回は当事者から健常者全体に向けて文章を書きます。

 

私は常々発達障害者にとって住みよい社会の構築のためにはどのようにすればよいのか、ということを考えていますが、最近では発達障害者と健常者が共存できる社会というものの可能性に疑問を抱いています。大衆の認識を変えることで共存は可能と思っていましたが、共存することは難しいのではないかと感じるようになりました。

 

私は、健常者と直接的にはほとんど関わらなくて済む生き方をしています。健常者との関わりは極力避けています。これは、これまでに健常者から虐げられてきたことにある意味憎悪を感じているためです。また、理解があると自負ているのか、発達障害者のために改善マニュアルなどを書いている健常者に対してはより一層強い憎悪を感じています。

例えば、私が発達障害に悩んで、少しでも社会に適合できるようになりたいと思っていたころに買った本には、発達障害は努力で改善できると書いてありました。これを読んだ時には喜びましたが、実際にはこんなものはクソ以下でした。改善マニュアルには、たとえば「物忘れが多いならばメモ魔になろう」とか「仕事の連絡は迅速に、具体的に行おう」などということが書かれています。

しかし実際にこれを実践しようとしてみても、そもそもメモを携帯することを忘れると言うことが頻発しました。これを改善するために首からメモ帳を風呂の時以外にはぶら下げておくということも試しましたが、メモをするべきタイミングにメモをすることに気がつかない、メモを携帯していることに気づかない、メモにメモをしたということを覚えていない、メモを見ればよいことに気がつかないなど、メモ帳が活躍することはありませんでした。

これは大変なことでした。私が読んだ本を職場の上司も読んでいたのですが、その本には「メモ魔になるという努力をすることによって発達障害はカバーできる」などと書かれているため、私がメモを忘れたことや携帯してもメモをとらないことに対して、その上司は私の努力不足だと思い、「発達障害者ならば発達障害者らしくきちんとメモをとれ」とメモをしないことに激昂するのです。

このほかにも似たようなこと(発達障害者がそもそも不可能なことをさせようとする)がいくらでも書かれていました。このような発達障害を安易にとらえた改善マニュアルなどが世間に出まわっていることで非常に迷惑したと感じています。この本の著者は発達障害者をサポートする意図をもって書いたのでしょうが、勝手なことをするなと怒りさえ感じますね。

このように、発達障害に真の理解をもっていないにもかかわらず、理解をしているかのように勘違いしている者こそ最大の障害物だと思っています。発達障害に関する認知を広めると言うことは、このような安易な理解をした者を多く生み出してしまうのではないかと思うのです。したがって、発達障害の認知を広めることによって真の共存のための社会をつくるという意見には疑問があります。また、発達障害に対しての真に理解することができるのは、ほぼ当事者だけだと思っています。健常者でも理解できるのは、家族などごく近くに発達障害者がいる人に限られるでしょう。

 

このようなこともあって、私は健常者に対して激しい憎悪を抱いています。自分を虐げた人に対する怒りが行動の原動力になっています。社会や健常者に対して憎悪の念を抱いている当事者は多いのではないでしょうか。

また、健常者が「発達障害者にも住みよい環境を作ろう」などという場合には、あくまでも発達障害者を下に見た上で引き上げようとする態度が見えます。さらに、この意見が「発達障害者はうまく用いることで皆の利益になる、だから発達障害者にも住みよい社会を作ろう」というものなのであれば、その主張の裏側には確実に「発達障害者はうまく用いなければ利益にはならない」とする考え方、あるいはそれに類する考え方が見えます。社会の大部分を構成しているのが健常者であるというだけでこのような態度を取られるのは非常に不快感が大きなものです。

片方は激しい怒りを持っており、片方は上から目線の面がある、この隔たりは大きいため、私は共存できる社会というものが実現可能なものかどうか、非常に疑わしく感じるのです。

このように主張したとき、大衆は怒りの感情を抱く発達障害当事者のほうを悪者にするでしょう。こちらは歩み寄ろうとしているのだから、そちらが怒りの感情を解けばいいじゃないかと。ブッダは怒りの感情からは何も生まれないと言いましたが、確かにそうかもしれませんね。

しかし、何も生まれなくてもかまわないとさえ思っています。これまでさんざんに虐げてきておいて、共存することが利益になるとわかったら手のひら返して歩み寄ってくるような奴等に対してヘコヘコとするくらいならば、何も生まれなくても構わないから刺し違えたほうがまだマシだと思っています。

プライドまでもずたずたにされてしまい、その日の暮らしに困るほどの当事者であれば、健常者から“手を差し伸べられる”ことによって生活の道を立てていくことを拒否しないかもしれません。それならばそれもよいですが、当事者の中には私のように、健常者が思っている以上に傷つき、憎悪の念を抱き、報復のための道を模索している人もいるということは知っておくべきでしょう。また、発達障害者と健常者の間に今のような関係が続いていけば、そのような念を抱く発達障害者は増えてくることと思います。

この記事を書いた人

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1989年、広島に生まれる。
理系大学に進学するも、文筆家を志すようになる。
在学中より定期刊行物への投稿を始める。
卒業後は毎月1本の連載を抱えるも、発達障害のためにアルバイトを転々とする。
経済困難による自殺未遂なども経験しながら文章の道を求め、現在では文章一本での生活を確立している