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こんにちは、ADHDとアスペルガー症候群の当事者のaspemanです。今回は当事者から健常者全体に向けて文章を書きます。
私は常々発達障害者にとって住みよい社会の構築のためにはどのようにすればよいのか、ということを考えていますが、最近では発達障害者と健常者が共存できる社会というものの可能性に疑問を抱いています。大衆の認識を変えることで共存は可能と思っていましたが、共存することは難しいのではないかと感じるようになりました。
私は、健常者と直接的にはほとんど関わらなくて済む生き方をしています。健常者との関わりは極力避けています。これは、これまでに健常者から虐げられてきたことにある意味憎悪を感じているためです。また、理解があると自負ているのか、発達障害者のために改善マニュアルなどを書いている健常者に対してはより一層強い憎悪を感じています。
例えば、私が発達障害に悩んで、少しでも社会に適合できるようになりたいと思っていたころに買った本には、発達障害は努力で改善できると書いてありました。これを読んだ時には喜びましたが、実際にはこんなものはクソ以下でした。改善マニュアルには、たとえば「物忘れが多いならばメモ魔になろう」とか「仕事の連絡は迅速に、具体的に行おう」などということが書かれています。
しかし実際にこれを実践しようとしてみても、そもそもメモを携帯することを忘れると言うことが頻発しました。これを改善するために首からメモ帳を風呂の時以外にはぶら下げておくということも試しましたが、メモをするべきタイミングにメモをすることに気がつかない、メモを携帯していることに気づかない、メモにメモをしたということを覚えていない、メモを見ればよいことに気がつかないなど、メモ帳が活躍することはありませんでした。
これは大変なことでした。私が読んだ本を職場の上司も読んでいたのですが、その本には「メモ魔になるという努力をすることによって発達障害はカバーできる」などと書かれているため、私がメモを忘れたことや携帯してもメモをとらないことに対して、その上司は私の努力不足だと思い、「発達障害者ならば発達障害者らしくきちんとメモをとれ」とメモをしないことに激昂するのです。
このほかにも似たようなこと(発達障害者がそもそも不可能なことをさせようとする)がいくらでも書かれていました。このような発達障害を安易にとらえた改善マニュアルなどが世間に出まわっていることで非常に迷惑したと感じています。この本の著者は発達障害者をサポートする意図をもって書いたのでしょうが、勝手なことをするなと怒りさえ感じますね。
このように、発達障害に真の理解をもっていないにもかかわらず、理解をしているかのように勘違いしている者こそ最大の障害物だと思っています。発達障害に関する認知を広めると言うことは、このような安易な理解をした者を多く生み出してしまうのではないかと思うのです。したがって、発達障害の認知を広めることによって真の共存のための社会をつくるという意見には疑問があります。また、発達障害に対しての真に理解することができるのは、ほぼ当事者だけだと思っています。健常者でも理解できるのは、家族などごく近くに発達障害者がいる人に限られるでしょう。
このようなこともあって、私は健常者に対して激しい憎悪を抱いています。自分を虐げた人に対する怒りが行動の原動力になっています。社会や健常者に対して憎悪の念を抱いている当事者は多いのではないでしょうか。
また、健常者が「発達障害者にも住みよい環境を作ろう」などという場合には、あくまでも発達障害者を下に見た上で引き上げようとする態度が見えます。さらに、この意見が「発達障害者はうまく用いることで皆の利益になる、だから発達障害者にも住みよい社会を作ろう」というものなのであれば、その主張の裏側には確実に「発達障害者はうまく用いなければ利益にはならない」とする考え方、あるいはそれに類する考え方が見えます。社会の大部分を構成しているのが健常者であるというだけでこのような態度を取られるのは非常に不快感が大きなものです。
片方は激しい怒りを持っており、片方は上から目線の面がある、この隔たりは大きいため、私は共存できる社会というものが実現可能なものかどうか、非常に疑わしく感じるのです。
このように主張したとき、大衆は怒りの感情を抱く発達障害当事者のほうを悪者にするでしょう。こちらは歩み寄ろうとしているのだから、そちらが怒りの感情を解けばいいじゃないかと。ブッダは怒りの感情からは何も生まれないと言いましたが、確かにそうかもしれませんね。
しかし、何も生まれなくてもかまわないとさえ思っています。これまでさんざんに虐げてきておいて、共存することが利益になるとわかったら手のひら返して歩み寄ってくるような奴等に対してヘコヘコとするくらいならば、何も生まれなくても構わないから刺し違えたほうがまだマシだと思っています。
プライドまでもずたずたにされてしまい、その日の暮らしに困るほどの当事者であれば、健常者から“手を差し伸べられる”ことによって生活の道を立てていくことを拒否しないかもしれません。それならばそれもよいですが、当事者の中には私のように、健常者が思っている以上に傷つき、憎悪の念を抱き、報復のための道を模索している人もいるということは知っておくべきでしょう。また、発達障害者と健常者の間に今のような関係が続いていけば、そのような念を抱く発達障害者は増えてくることと思います。
この記事を書いた人

- 編集者
-
1989年、広島に生まれる。
理系大学に進学するも、文筆家を志すようになる。
在学中より定期刊行物への投稿を始める。
卒業後は毎月1本の連載を抱えるも、発達障害のためにアルバイトを転々とする。
経済困難による自殺未遂なども経験しながら文章の道を求め、現在では文章一本での生活を確立している
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私も1989年生まれの発達障害当事者であることもあり、
大変興味深くこの記事を読ませて頂きました。
確かに、現実問題共存は難しい面があるだろうなと感じています。
意義ある記事ありがとうございました。
私のブログも良ければご覧ください。
初めまして。
1989年生まれの発達障害当事者であることもあり、興味深くこの記事を読ませて頂きました。
私も、現実問題共存は難しい面があるだろうなと感じています。
意義ある記事ありがとうございました!
良ければ私のブログもご覧ください。
何十年も精神科医をやっていて発達障害は努力の問題だとか言う、私の主治医は何者なのでしょうか?憎しみすら湧いてきますし、悲しいです。私は1973年生まれのADHD持ちです。
ただ共存さえすれば良いという事であれば出来るとは思いますが、
発達障害に対して理解が得られるということは100%無いと思っています。
口では分かったような事を言っても結局のところ定型発達には表現が不器用な僕達の面の皮しか見ることはできないので。
ぼくも発達障害の当事者だと、大学卒業後に診断を受けました。
「発達障害者」と「定型」の間に線を引いて「発達障害同士は仲間」を強調する当事者には
あまり仲間意識を感じることが出来ません。共感もできません。
同じ障害を持っているからといって、勝手に仲間にしないでほしいです。
自分の怒りや恨みを発達障害の代表者のように語らないでほしいです。
支配と被支配であっても同じ世界を生きているので「共存」と言えるでしょう。
しかし、互いに理解し合うのは不可能でしょう。
「妬み」が支配する世界では、障害者が有利な制度が出来れば、健常者が「アイツ等、楽しやがって」と僻みます。他方、健常者と共に働いていても「奴の方が仕事が少ないのに俺と同じ給料か」と僻みます。
健常者同士でも僻み合う世の中で、障害者が健常者と肩を並べて生きる事は不可能でしょう。
弱肉強食という自然の掟の下、障害者である我々は、健常者に利用され、搾取されるしか生きる術はないのかも知れません。
1988年生まれの自閉症スペクトラムと診断された者です。
二次障害で社会不安障害も併発しております。
この文章を書かれた方が大変傷ついておられるのがよくわかり、共感できる内容でした。
私も仕事に関して非常に困っております。
本当に、発達障害者と健常者は意思疎通が困難で、チームワーク、談笑、などのコミュニケーションスキルをはじめ、常識的な振る舞い、マナー、気遣い、など社会人ならできて当前だと健常者には思われていることができず、人間関係に亀裂が走り、仕事がスムーズにいきません。
「まだ年齢が若いから許されるけど、30歳を超えたらもう甘えられないからね」みたいなことを職場の人に言われますが、いくつになっても私が空気が読めないのは変われないような気がして、毎日年を取ることに不安を感じ、いつでもどこでも突然呼吸困難になります。
私はずっと健常者の方たちと意思疎通ができず、孤独感に苛まれながら生きてきましたが、私と同じ発達障害者の方たちと職業訓練をする機会があり、悩みも特徴も自分ととても似ていて、初めて仲間に巡り合えたと、とても嬉しく、大変感動したことを覚えています。
妊産婦の大変さを男性が一生理解できることがないように、また発達障害者もその当事者でなければきっとわかりあえないのではないかと私も思います。
こう、電波が伝わったみたいに、ピーン!と、両方で仲間だ!という感覚が言葉を発せずとも感じられたのが衝撃的な体験でした。本当に嬉しかったです。
今はその仲間や理解者たちと離れ、健常者たちに囲まれ、一人孤独感に包まれながら、生きづらさを感じながら仕事をしています。
障害者枠で働いているのですが、初めて不安障害もちの発達障害者を雇う健常者側も私をどう扱ったらいいかわからない空気を醸し出し、オフィス内の空気が重かったり、イライラしていたりするのを感じます。
私は私で健常者に合わせようとすると体調を崩すし、マイペースでいこうとしても健常者が気になり、結局仕事に集中できないでいます。
結果、身をもって発達障害者と健常者の共存は難しいのではないかと思います。
昭和52年生まれの当事者です。健常者のほとんどが、敵ですね。でも、健常者の中でも心有る方たちに、運良く僕は、会えましたよ。家族には理解者が居なく苦労しましたが、健常者の支援者の方からは、健常者の努力不足との謝罪聞きましたよ。障害教育は、健常者にも、必須科目に、成って行くでしょうね。共存社会の実現は、無理ですね。
自分は、14年間統合失調症と誤診されて、子供が自閉症と分かり10年間位は自分も発達障害じゃないかと訴えても話をまともに聞いてもらえなかった・・・そもそも幻聴と自分で気付いたり統合失調症でないのかとか自覚するのがおかしいし。あとの症状やうつ的な物や人と自分から関われないやしゃべらないは、最低でも小学生からだから・・・まさかその時から統合失調症なわけ無いし、白昼夢ばかりで記憶がないのがてんかんと勘違いされて検査されたし・・・もちろん異常無し。職場で、元管理職のジジイに頭おかしいだろとか、スマホどんな顔してやってるか親に見て貰え、アホみたいな顔してるぞ!とか言って、俺の目の前でスマホやるなと言われて休憩所に居られなくされたりして、発達障害者支援センターに電話して、障害者相談支援委員の方にと言われて、連絡して大人の発達障害を診断出来る医療機関を探してもらって、診断を受けました。もちろん統合失調症は、完全否定でした。ストラテラ飲んでから精神的神経症的な症状は改善し、不安感や大人緊張も
自分は、14年間統合失調症と誤診されて、子供が自閉症と分かり10年間位は自分も発達障害じゃないかと訴えても話をまともに聞いてもらえなかった・・・そもそも幻聴と自分で気付いたり統合失調症でないのかとか自覚するのがおかしいし。あとの症状やうつ的な物や人と自分から関われないやしゃべらないは、最低でも小学生からだから・・・まさかその時から統合失調症なわけ無いし、白昼夢ばかりで記憶がないのがてんかんと勘違いされて検査されたし・・・もちろん異常無し。職場で、元管理職のジジイに頭おかしいだろとか、スマホどんな顔してやってるか親に見て貰え、アホみたいな顔してるぞ!とか言って、俺の目の前でスマホやるなと言われて休憩所に居られなくされたりして、悔しいので、発達障害者支援センターに電話して、障害者相談支援委員の方にと言われて、連絡して大人の発達障害を診断出来る医療機関を探してもらって、診断を受けました。もちろん統合失調症は、完全否定でした。ストラテラ飲んでから精神的神経症的な症状は改善し、不安感や対人緊張も無くなったり軽くなり、でも、ミスや体調の不安定や気持ちも不安定でイライラしたりハイテンションになり、いつまでも喋らない程の無口が喋りすぎで何か忘れたり、ミスしたりが目立つようになりました。上司にも報告しましたが、統合失調症で何も特に配慮無いのにADHDだからと特別何の配慮もなく、前の上司は病院まで付いて来て話を聞いてくれたりとかしたのに、今はネットでちょこっと調べた程度・・・本来、手帳も届け出てるのだから、病院と連携する姿勢の無い会社なんて、障害者も安く使える人材程度にしか思ってない?です。
しかと、誰もこなせんだろ?って、仕事と終わらない仕事量・・・効率よくやってくれないと困るとか、戦力として考えてるからとか・・・体調毎日変動するから、今日出来たから、明日もなんて無理!障害の意味分かってんの?って言いたいのだが!健常者と全く同じ様に(以上に求められてる様な・・・)仕事こなしたら障害って何なの?と逆に聞きたいのだが・・・。
私は逆にこのようなことを書く当事者の方に共感出来ません。
正直、発達障害の当事者がみんなこうみたいな書き方のブログに辟易している発達障害者です。
代表みたいに語らないで。
自分も健常者は敵対視している所がありますが、結局定型発達の方より出来ない部分が多いから「障害」なんです。
発達障害は自分の長所が運よく身近にあるような仕事にマッチするものであれば定型より結果を残す事が出来ます。
しかし、うまくマッチしない人が多いのが現実です。
今は自分の欠点を認め長所と短所を洗いだし健常者に説明し、出来る仕事を「やらせてもらう」という姿勢でいます。
自分の場合年数が経っても管理職など上の立場の仕事は勤まらないと考えているのでそうせざるを得ません。
そして全員が全員健常者を嫌っている訳でもないですし逆に同じ発達だからこそ嫌な部分が見える人もいます。
これこそ本当に「人それぞれ」なんです。
僕もまたアスペルガーのADHDを抱えています。自尊心を傷つけられるような事を何度か経験してきました。
このような状況に追い込んだ人たちに強い憎しみや憤りを感じます。
定型の人々と交わる事で摩擦は避けられない。お互いストレスを感じないためにも無理な共存はする必要がないと考えてます。
ほぼ全文同意です。
現実でもネットでも私達を散々虐げ、誹謗中傷、罵倒し放題、それでいて被害者面している健常者達が憎くて仕方ないです。
苦しくて何度泣いたか分かりません。
どうせ理解し合えないのだから、無理に共存などせず、健常者は健常者だけで、そして発達障害者は発達障害者だけで集まって生活するようにすればいい。
そう思います。
我々発達障碍者にとって健常者というものへの認識はおそらく人によってさまざまでしょうが、私もあなた様に強く共感するものがあります。結局彼らと我々は見た目は似てるが別の生き物とまでかなり割り切る必要性に迫られます。我々は彼らのことは理解できず、彼らは我々のことを理解できないと鼻からあきらめに近い感情で接する方がこちらが傷つかずに済みます。確かにあの人たちは一見優等種族のようですが、それも実質かなり怪しく感じられて仕方ありません。例のごとく回れ右で回りに流されやすく常識を疑おうともしない人が多すぎる。大きく長い視点で見れない。そしていつもの失敗を延々繰り返す。彼らは職場ではさんざんにわれらをやり玉にあげますが、歴史ではあの体たらくであり、奴らをその危機から救ってやってるのは一体どっちなんだと思います。ですが、これもいつもの通り、そういう時には拾い上げるだけ拾い上げてもらって、用済みになればすぐに。そして彼らのお得意の戦法でおいしいところだけ持っていきます。
中にはそうでない人もいるのかもしれませんが、特にこの国、しかも最近ではそれが顕著な気がして苛立たしい気持ちでいっぱいです。だいたいゴッホもエジソンも竜馬も世に出る前誰もかれもあれだけ無能扱いしていたのは彼ら自身の例の無能ぶりをそのまま表しているような気がします。
なんでこんな奴やあんな奴らを祭り上げてだまされたといって騒いでいるのやら、この事件もあの問題もやつらは目先にはもう嫌というぐらい目ざといのに、なんでそういう直感や学習は育くまれないのかと不思議というよりあきらめです。
やつらはマジョリティ同士の付き合いすなわち彼らの言う「人間」はよく知っていますが、「真理」というものがすっかり抜け落ちています。やつらの多くは「どこがだ」と怒るのかもしれませんが我々の多くが知るように幸福かどうか、あるいは忍耐が多いかは別として「安楽」に安住して生き続けています。すなわち、世の決まったことに大した抵抗もなく屈従することができます。そして彼らには逃げ場もすぐあります。むろん、そういった事象に当てはまらない稀有な方々もいらっしゃいますが。逆に言うと我々発達障害者のみならずマイノリティの利得は当たり前が当たり前ではないということを思い知っているということです。
私は自身物欲より名誉欲より何よりもこういった苦悩から解放されるのが人生の至上命題のような気がしてなりません。でもそれが達成されれば私も安住することになってしまうのでしょうけれども。いったい何が人生にとっていいものやら。それを選ぶのは結局自分だということなのでしょうか。
全くその通りであり、それ以外に何があるのだろうと思います。
特に最近の「みんな仲良く」というのはかえって「は?」と逆なでされてなりません。
あれだけのことをずっとしているのに。結局あいつらにとっての「中国人・韓国人」とおんなじ扱いなんですね。ちなみに私はあいつらより実際に付き合ってみて「中国人・韓国人」の方がはるかに好きで親近感があって尊敬もできます。
これを覆すにはもはややつらからの身を持った証明いがいにないのですが、やつらはずっと裏切ったまま、もとい、期待通りの様を見せ続けてくれています。
せめてあいつらが我々の思うような有能な方々ならいいのですが、例のごとくあのまんまで「人」どうしのつきあいにはさも御達者で、事実上世の中の破壊に「命がけ」で邁進していらっしゃいます。
洗脳も簡単にされ(横のつながりばっか大事にしていますからね。上と下という概念はやつらにありません。お上と下々という概念はありますが)、「大衆は常に間違える」そのまんまです。
あの人たちはもう大して変わりようもないようですから、結局こっちでいろんなことを整理する以外にないようですね。へいへいお上様。
まったくおっしゃる通りだと思います。というよりほかに何があるのかわかりません。
それを覆すには実体験あるのみですが、彼らから覆された思い出がほぼ思いつきません。
せめてあの方々が「こちらから見ても」だったらいいのですが、あの人たちの特性として横は見ても上と下は見ない。あの人たちの上と下というのは例によってお上と下々です。
おかげで見てやってください。やらんでもわかるだろという大失敗を繰り返しています。でもいいんですよね。あの人たちは横しか見ていませんから。すごいですよ。そりゃ、我々なんて見えないですよ。見えてもいつもお上と下々ですからね。
民主主義と、市場主義って、なに?まあ、独裁はあいつらを手繰るやばいやつらがえばるだけですけど。あああ。彼らにとって我々がどういうものかはもう嫌というほど思い知らされているが、彼ら自身がどういうものなのかわからなくするような仕組みだもんな。あいつらを過保護にする制度というか。あいつらを適当にあしらって食い物にするやつらを増長させる仕組みというか。中にはそりゃそうじゃない人もいるんだろうけど。どんだけの割合だよ。それに一番底辺ではいつくばって「へえへ」と聞き届けてやらねばならないのは誰なんだよ。
それでいつもあいつらの歴史的失態を尻拭いして、後に出てきて「さもありなん」とばかりに功を横取りし、自分たちの好きな世の中を再構築するのはいったいどこのどいつらなんだ。