発達障害者が付き合うべきもの

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aspeman

1989年、広島に生まれる。 理系大学に進学するも、文筆家を志すようになる。 在学中より定期刊行物への投稿を始める。 卒業後は毎月1本の連載を抱えるも、発達障害のためにアルバイトを転々とする。 経済困難による自殺未遂なども経験しながら文章の道を求め、現在では文章一本での生活を確立している

発達障害者が人生において苦しみを感じるものの一つに、人づきあいがあります。特に健常者がそうであり、健常者の主張する常識と言うものがよくわからない我々発達障害者は彼らと付き合う時に非常に窮屈に感じるのです。

また、健常者たちは至って標準的な能力を備えており、なおかつ他人も等しくその能力を持っているものと決めつけており、その能力を持っていない者に対しては怠けものか、よほどの馬鹿の見なす人が多いのも付き合いにくさの原因です。たとえば我々発達障害者は何らかの全く関係のない音が聞こえているときに話しかけられると、相手が何を話しているか全く分からなくなります。しかし健常者にはそれができて当たり前であるため、できない我々を劣った人間と見なしています。

私は発達障害当事者として、人づきあいに関して一つの結論に至っています。それは、なるべく健常者とは付き合わないと言うことです。何らかの理由によって関係を遮断できない人もいるでしょうが、そのような時にも健常者と理解を深め合おうとか、信頼関係を築こうとは思わないことです。

信頼関係を築くことや、深い関係になることは大変困難なことであると思います。しかし、健常者たちは発達障害者に対して(相手が発達障害者であることを認識していないとしても)、どこかおかしい奴だ、変わったやつだという印象を抱いているものです。私自身、学生時代には友達にこの上なく誠実に接したつもりですし、トラブルが起こって頼られた際には仲裁に入って、多少強引な手を使っても解決してきたものでした。しかし、信頼関係を築けていたと思っていたのは私だけのようで、多くの友達とは疎遠になったのが現実です。それは、友達の多くが私の本質を理解できずに深く信頼をすることができなかったからだろうと思います。

私はこのような経験をもとに過去の交友関係をすべて振りかえってみましたが、思い返せば本当に親友と呼べる人間は一人もいなかったように感じています。こちらは友達のために身を削ぐ覚悟はしているのですが、友情が完全に一方通行になっている感覚があります。発達障害者には激情家の一面があるのでしょう。だからこそ、健常者との友情を求めた時には、健常者はその激情を受け入れることができず、身を引いてしまうのかもしれない、そう感じています。

 

そんなふうに考えるようになってからと言うもの、私はすべての健常者に対して信頼することがなくなりました。家族にしてもそうです。そもそも家族は私が発達障害であることを知りませんし、知らせたところでどうにもならないでしょう。家族というものをどこか他人のような感覚をもってしか見ることができません。これまで親しく付き合ってきた健常者にしてもそうであり、心の底から信頼できる人は今のところいません。

信頼できるものと言えば、発達障害当事者と動物くらいのものでしょうか。当事者同士は真の信頼関係を結べるという実感があります。お互い同じ苦しみを味わっていると言うことが大きいです。健常者はいくら推察してもこの苦しみを理解できることはなく、体験してきた者同士抱くシンパシーは強烈にお互いを結びつけます。

例えば鬱に伴う感情や、発達障害者特有の癇癪というものは、当事者でなければ到底分るものでありません。思考回路がおかしくなり、前後不覚に陥り、それが犯罪になろうとも物や人に当たり散らかして大暴れしたくなる感情と、それを必死に抑えようとする感情、それに伴って涙や鼻水があふれて頭に血が上り、頭痛や吐き気が起こり、記憶が飛んだり、人によっては奇声を上げるに至るのですが、こんな感情は健常者には到底理解できるものではないでしょう。もし抑えようとする感情が衝動的になっている感情の波を抑えることができなければ暴れることになり、物を壊したり、人を傷つけてしまうわけですが、常識人たる健常者たちはその人を単なる精神異常者として片づけ、精神病院か刑務所あたりにぶちこんで終りです。臭いものにはふたをするというのが健常者の常套手段です。

だから健常者というものは私にとって全く信用に値する存在ではなく、できるだけ関係することなく生きていくことができればこれほど幸福なことはありません。深く付き合う人間は同じ障害を抱えた人だけで十分であると思っています。

 

また、動物はいいものです。これも真の信頼関係を築ける数少ない対象です。動物はこざかしい常識などというものに捉われてはいないため、本質的に他の動物を見ることができます。普段は極めて常識人でいい人とされている人間が、犬から異常に嫌われるのを見ることがありますが、これはおそらくその人間が本質的に邪悪なものを持っており、それを見た犬が危険な人間だと嫌って敵愾心をむき出しにしているのです。

逆もしかりです。本質的に優しさを持っている人間に対しては、動物は全く攻撃性を持たずに接してくれます。私は一般社会では理解しにくい人間だとして健常者たちからは深い付き合いをすることを避けられてきました。虫も殺さない私の本質を、誰も理解してくれることはなかったのです。

しかし、動物にはそれが分かるのでしょう。近所で猛犬として有名で、通行人には誰彼かまわず吠える犬がすり寄ってきたりと言うことは日常茶飯事です。動物だけでなく昆虫類にも同じことが言えると思います。たとえばスズメバチが私の体に止まっても、こちらが殺そうと言う意志を持っていないものだから、攻撃されることがまず有りません。

 

人間が苦痛を感じることの一つに、“人から理解されない”と言うことがあります。このことはここに書くまでもなく、多くの発達障害者がすでに経験しているところでしょう。しかし、その感情は「理解されたい」という気持ちがあるからこそ起こる悲しみ・苦痛であり、そもそも健常者とは理解し合うことは難しいことなのだと考えておけば苦しみはいくらか和らぐでしょう。

そして同じ障害を抱えた仲間を見つけて結びあうこと、そして犬あたりを飼って健常者などよりもよほど信頼できる動物と付き合っていくことがよいでしょう。無理に健常者と付き合おうと努力をするよりは、こちらのほうが精神衛生上よほど健全であると思います。

このようなことを主張すると「かわいそうな人間だ」という評価を受けるかもしれませんが、そのような評価というものはあくまで健常者の価値観における「友達は多いほうがいい」という意見に基づく評価であり、何ら気にする必要はないと思います。健常者たちは、おそらく「友人」のなんたるかを深く考えることもなく、希薄な関係であろうとも、付き合いのある人間が多いほうがいいと言うくらいに考えているのでしょう。

発達障害者として誇りをもって生きていくためには、健常者の価値観や常識を否定することが必要不可欠です。自分たちの常識がすべてと考えている大方の健常者の意見は無視しておくのが最良の選択でしょう。

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aspeman編集者
1989年、広島に生まれる。
理系大学に進学するも、文筆家を志すようになる。
在学中より定期刊行物への投稿を始める。
卒業後は毎月1本の連載を抱えるも、発達障害のためにアルバイトを転々とする。
経済困難による自殺未遂なども経験しながら文章の道を求め、現在では文章一本での生活を確立している